銀河のほとりに (41)

小暮智一 (こぐれともかず・美星天文台長)


ドイツ科学史の旅 (その4:ウルム)

美星スターウオッチングクラブ会報「星見だより」1997年3月号

シュトゥットガルトからIC特急(InterCity)で1時間,車窓に天を突いてそびえる尖塔が見えてくると間もなくウルム駅です. 駅前から大聖堂までは歩行者天国になっていて,大道芸人のオルガンを鳴らす音や,特売品を売る店の呼び声などでにぎやかです. この大聖堂は1377年に建設が始まり1890年に完成をみたという,ヨーロッパで最高の高さを誇るゴチックの尖塔が見事です.

ヨハネス・ケプラーはチュービンゲン大学を卒業後,神聖ローマ帝国の皇帝付き数学官として働くかたわら,地動説による惑星運動の研究を進めていました. 当時チェコのプラハには,スウェーデンから招待されたチコ・ブラーエがおり,長年の惑星の観測資料が蓄積されていました. ケプラーはしばらくチコの下で観測を手伝い,チコの死後,膨大な資料を手にしました. プロテスタントであったケプラーは宗教上のトラブルに巻き込まれ,たびたび苦しい立場に立ちましたが,その中で資料の解析を進め,惑星の軌道が楕円であることを明らかにしてギリシャ時代からの観念的な円軌道に終止符を打ちました.

新しい惑星運動論に基づいて,ケプラーは天体暦の計算にとりかかりました. 天体暦とは長期間にわたる惑星の位置を予測するもので,遠洋航海などには必須な暦です. ケプラーの天体暦は地動説に基づく初めての暦で,従来の天動説に基づく暦に較べて格段にすぐれた精度をもつものでした. この暦の計算にケプラーはネピエが導入したばかりの対数法を用い,天体暦の一部には対数計算法の解説も含まれています. 対数が初めて実用的に利用されたのはこの天体暦だといわれています.

[JPEG 12KB] 印刷所跡(手前の家)

当時,ウルムは高い印刷技術で知られていました. そこでケプラーはウルムに移り住み,1年かかって原稿の仕上げと印刷を終了しました. こうして1627年にできあがった天体暦はケプラーとチコの庇護者であった神聖ローマ皇帝ルドルフ候に献上するためルドルフ表と名付けられました. この時期ケプラーが住んでいたウルムの家は戦災で焼けてしまいましたが,印刷所は大聖堂に北側のラーベン・ガッセ通り5番地に残っていて,今は小ぎれいな美容院になっています. 表のドアの近くに「ここの2階でルドルフ表が印刷された」というタブレットが掲げられています. このあたりはにぎやかな下町風情の商店街ですがケプラーの住んでいた頃はどうだったのでしょうか.

[JPEG 9KB] 記念のタブレット


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Kazuya Ayani, Bisei Astronomical Observatory / ayani@bao.go.jp