飛鳥時代から江戸時代以前の天文記録

日本書紀によれば,620年に赤気(オーロラ)の記録,628年に日食の記録があり,この頃から天文現象に注意を払い始めたようである.天文現象が国の盛衰や吉凶と関係があるという考えから記録されたのであろう.以下に最古の天文現象の記録を中心に天文現象の記録を紹介する.なお,じょ明天皇の頃から天文現象の記録が多くなるが,これは第2回遣隋使の留学生である僧日文の帰国の影響であろう.

日食

日本書紀に「推古天皇三十六年三月二日,日蝕え尽きたり」(628年4月10日)の記録が日本最古の記録である.この時は食分が0.92にも及ぶ食であった.なお,この日食は2日に起こるという太陰太陽暦では不思議な設定であるが,当時使われていた暦(恐らく元嘉暦)が平均朔望月を使用していたためである.

なお,これ以降1600年までの973年間に576個の日食の記録があるが,実際に日食があったのは286個である.これは実際の観測記録ではなく,暦の予報として記載されているものも記録されているためである.

月食

日本書紀に「皇極天皇二年五月十六日,月蝕えたり」(643年6月8日)の記録が最古の記録である.しかし,この月食は月が沈んでから起こる月食なので,暦算のものを記録として残したらしい.本当の月食の記録は日本書紀に「天武天皇九年十一月十六日,月蝕えたり」(680年12月12日)の記録で,この時は食分が0.85の部分食であった.

なお,これ以降1600年までの973年間に568個の月食の記録があるが,実際に月食があったのは411個である.この理由も日食と同じである.

彗星

日本書紀に「じょ明天皇六年秋八月,長き星南方にあらわる.時の人彗星という.」(634年).これが日本最古の彗星の記録である.また,ハレー彗星の最古の記録は日本書紀の684年の記録である.

星食

日本最古の星食の記録は「舒明天皇十二年二月甲戌(7日),星月に入る」(640年3月4日)である.この日午後8時27分にアルデバランが食されたことが計算されている.また,「天武天皇十年九月葵丑(17日),螢惑月に入る」(681年11月3日)の記述がある.計算すると,11月4日未明に月齢17.3の月に火星が非常に接近した記録(食ではない)である.当時の1日の境は午前3時頃なので,11月3日の記録でも間違いではない.

昼間の星

続日本紀によれば,「大宝二年十二月戊戌(6日),星昼見る」(702年12月28日)とある.計算では,これは東方最大離角を迎えた金星であった.なお,1600年までに56例あるが,斉藤国治の同定によると,金星53例,木星2例,火星1例であった.

流星

江戸時代までの日本の天文記録の中で流星雨と思われるものは18個ある.最古の記録は垂仁天皇十五年の記録であるが,これは水鏡だけにあり,日本書紀にはないので信頼性に欠けること,さらに年が特定できないので,記録の価値はない.次の記録は日本書紀の天武天皇十三年の記録であるが,他の記録から天武天皇十二年十月二十三日が正しいようである.この記録では彗星の記録があり,流星雨の元となった彗星も同時に記録されていると思われる.日本でのしし座流星群の最初の記録は967年であり,その後1002,1035,1037,1238,1533,1698,1867に記録がある.

新星・超新星の記録

1006年のおおかみ座新星

1006年に日本では3月から7−8月頃までおおかみ座に見えた超新星である.種々の文献が」あるが,3月28日に天文博士安倍吉昌が奏上している.藤原定家著の明月記に以下の文章がある.「寛弘三年四月二日(1006.6.1)葵酉夜以降,騎官中有大客星 如螢惑,光明動耀,連夜正見南方,」これは定家自身が見た記録ではない.

1054年のおうし座新星

1054年におうし座に見えた超新星である.現在のかに星雲である.これも明月記に以下の文章がある.「天喜二年(1054)四月中旬以降,丑時客星出参度,見東方,はい天関星,大如歳星」これも定家自身が見た記録ではない.

1181年のカシオペヤ座新星

1181年にカシオペヤ座に2ケ月程見えた新星である.これも明月記に以下の文章がある.「治承五年六月廿五日,庚午戌時客星見北方,近王良守伝舎星」.中国では半年見えていた.

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参考文献

斉藤国治「飛鳥時代の天文学」1982,p13-103,河出書房新社
佐藤政次「暦学史大全」1968,p.70-73,135-138,189-200,駿河台出版社
日本学士院編,1979「明治前日本天文学史」p.423-482,臨川書店