江戸時代初期に頒布されていた宣明暦による食の予報ははずれることが多かった.当時盛んであった和算の視点から暦の検討が行われるようになった.1673年渋川春海は授時暦で改暦を行うことを上奏したが,運悪く,1675年の日食は授時暦ではあたらず,宣明暦では当たった.このため,改暦は却下されたが,春海は自ら太陽高度や星を測り,前回の食の予報の失敗の原因が中国と日本の経度の差であることを見抜き,独自の方法で授時暦に改良を加えた大和暦を作り,1683年に再び上奏した.しかし,衆議は明の大統暦の採用となった.
ところで,春海は囲碁を以って幕府に仕えていたが,その囲碁の中で会津の保科正之や水戸光國などの有力者と知り合っていた.彼らは春海の改暦運動の後押しを行い,大統暦と大和暦の優劣を天測で行うよう命じ,これが成功して,貞享元年,大和暦が採用され,貞享暦と名づけられ,貞享2年(1685)から施行された.ここに日本人による初の改暦が行われたことになった.これ以降春海は幕府天文方となった.
貞享の改暦で天文学が必要な編暦は幕府天文方で,暦注は京都陰陽師加茂(幸徳井)家で行う役割分担ができた.また,これを機会に暦が統一された.貞享暦は70年間の内,25回日食を予報しているが,その中で見えなかったものは1回だけで,しかも注釈として「見え難い」と記したものである.また,記載されなかった日食は長さが1分ほどのものを1回だけおとした.いかに優秀かがわかるであろう.
参考文献
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内田正男,1982「天文学史 日本の暦法」p218-221,恒星社
渡辺敏夫,1986「近世日本天文学史(上)」p45-90,恒星社
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