江戸時代の改暦・寛政の改暦

寛政時に幕府天文方には渋川,吉田,山路,奥村の4家があったが,いずれも実力がなく,幕府は九州杵築藩を脱藩した麻田剛立(綾部妥彰の改名)を改暦準備のため招こうとしたが,麻田は脱藩した身で高齢であることから,寛政7年麻田の弟子である高橋至時間重富が出府した.至時は天文方に任命され,重富は町人であったため,天文方と同格の扱いを受けた.そして,寛政10年より非常に優れた暦である寛政暦が施行された.しかし,京都土御門家の関係,天文方同士の仲裁に時間をとられ,例えば,惑星運動には楕円軌道は採用されない等の自らの思うような改暦とはならなかった.そこで,改暦後も暦学の研さんに努めた.そして,高橋至時はオランダの「ラランデ暦書」で西洋天文学を目の当たりにして,その訳に全力を傾け,自らの命を縮めることとなった.

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参考文献

内田正男,1982「天文学史 日本の暦法」p.224-226,恒星社