時の鐘,時の太鼓

時の鐘

江戸時代末,安政4年に出版された「西洋時辰儀定刻活測」によると明け六つは大変測りにくいが明るい星がぱらぱら見え,手のひらの内で細い筋は見えないが,太い筋が3筋ほど見えるときである,とある.しかし,雨天,月夜では測りにくいとある.

庶民はこのようにして時を知ったのであろう.また,時の鐘や太鼓が普及していたので,これを聞いて時刻を知った.時の鐘はお城で使われていた城鐘と江戸の本石町のように市中にあったもの,寺が撞いていた寺鐘の3種類に分けられる.城鐘は機械時計等で,寺鐘は定香盤等を使用したのではないかと思われる.

江戸末期ごろは江戸城内では本丸西丸に土圭の間があり,大きな時計が掛けられていた.時計の掛りや太鼓の掛りがおり,城中の諸行事や城門の開閉は太鼓の時報により行われていた.幕府の武士の登城は朝四つ時であった.時を司る坊主は其時毎に只今は何時と各部屋に触れ回った.

他の藩で城内に時鐘のあったものは,川越,出石,岡山,高梁,高松,延岡,奈良,岐阜,和歌山,金沢などがある.明石城は太鼓であった.津山の鶴山城,信濃の高遠の城址には建物が残っている.

江戸市中の時の鐘としては,江戸本石町三丁目に時の太鼓が作られ,後に鐘に取り替えられた.家康の時代には明け暮れの六つ時を知らせるだけであったが,秀忠の時代に明け暮れだけでは役に立たないということで,昼夜を通じて十二時を知らせるようになり,太鼓から鐘に代わった.初期の江戸中心住宅地はこの鐘の聞こえる範囲内であった.ここでおもしろいのは時の鐘の聞こえる町の町人から1ケ月で永楽銭で1文づつ徴収したことである.以下にこの様子を示した川柳がある.

石町で出しても同じ時の割

その後,江戸市中が拡大するにつれて,浅草,上野,芝,目白,本所入江町,深川,市谷,赤坂,新宿の9ケ所が知られている.これらは和時計で時を知ったようである.江戸以外では京都,大阪,長崎等で知られている.寺院の鐘は仏事を修する時の合図の時刻で六時と呼ばれるしん朝,日中,日没,初夜,中夜,後夜の六つの時刻であった.中世以降,庶民は寺の鐘で時刻を知ることが多かったようである.

時の鐘の打ち方は必ずしも明かではないが,つく鐘の数はその時の時刻の数と同じである.「遭厄日本記事」によると,時の鐘をつく前に注意を喚起するために捨鐘を3つつく.現在の時法での秒数を表すと,最初に一つ,1分半後に第二の鐘,まもなく第三の鐘をつく,それより1分半後に時の数をつく.その間隔は約15秒で,段々間隔は短くなる.また,町内によっては太鼓や拍子木で知らせるところもあった.また,夜間の時の鐘は信用できな かった.

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参考文献

橋本万平,日本の時刻制度,
内田正男,1982,天文学史 日本の暦法,恒星社
渡辺敏夫,1986,近世日本天文学史上,恒星社