明治の時刻制度の改正(太陽暦の採用)

明治5年12月3日を明治6年1月1日とし,太陰太陽暦から太陽暦の採用をする暦法の改正に伴い,時刻制度もこれ以降1日を24分割する定時法が採用された.布告は以下の通り.

一,時刻ノ儀,是迄昼夜長短ニ随ヒ十二時ニ相分チ候処,今後改メテ時辰儀時刻昼夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ,午前幾時ト称シ,午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト称候事.

一,時鐘ノ儀来ル一月一日ヨリ右ノ時刻ニ可改事,但シ是迄時辰儀時刻ヲ何字ト唱来候処以後何時ト可称事.

後者からそれまで西洋人との交渉で定時法の時刻は何字と称していたことがわかる.

明治の時刻制度の管理者はかなり変遷があった.幕府の崩壊に伴い,幕府天文方の中心であった浅草天文台は1869年10月17日に開成学校に器具類が引き渡され,完全に消滅した.1870年2月に天文暦道局を置き,8月に星学局と改めた.1871年に文部省の設置に伴い,天文局に改められた.ここで,推暦・編暦を行っていた.改暦後,1874年天文局は文部省編書課に,1875年時刻決定の業務は内務省に,1879年には編暦も内務省に移される.一般に時刻を知らせるために1871年9月9日より,昼12時に皇居内本丸跡で,兵部省により,大砲による号砲を一発ずつ発射していた.これは1929年4月に廃止されるまで「ドン」の名前で市民に親しまれていた.現在,その大砲は小金井市小金井公園に残る.1879年には東京以外の場所でも午砲が許された.なお,1929年以降は正午サイレンとなった.

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参考文献

橋本万平,日本の時刻制度,
青木信仰,1982,時と暦,東京大学出版会