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渋川春海から数十年も経つと,幕府天文方の実力は落ちていった.一方,徳川吉宗は天文観測に熱心で,洋書の輸入の禁を緩め,1747年に改暦の命を出し,市井の西川正休を天文方に任命した.改暦の要請は貞享暦が不備であったためではなく,吉宗の性格によるものであった.しかし,正休は実力がないのに京都土御門家をおろそかにしたために,土御門泰邦の反撃にあい,正休は罷免され,幕府改暦案は頓挫した.さらに泰邦を支えた暦学者も泰邦の性格を嫌い,去っていき,泰邦の作成した改暦案は貞享暦の定数を少し変えた程度のもので,実効のないものとなった.宝暦の改暦は 1755年(宝暦5年)から施行された. しかし,1763年(宝暦13年)9月1日に起こった5分も欠ける日食を暦に記載しないという失敗を犯し,しかも民間の暦学者から事前に誤りを指摘された.改暦は再び幕府に戻り,幕府天文方佐々木長秀らが明和8年に修正を加えた.これは明和の修暦と呼ばれる.しかし,根本的な解決とはならなかった. 参考文献
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