平安時代の時刻制度

漏刻,延喜式

平安時代中期,927年に制定された「延喜式」によると,暦や占い,時刻を司どる役所として陰陽寮を規定していた.それによると,宮城の門は朝開き,夜閉じていたが,その時刻に太鼓を打つのが陰陽寮の役目であった.その規定では,時刻制度は定時法であった.また,日の入り,日の出の時刻も同時に掲載されているが,当時は太陰太陽暦を採用しているために,月日で表すことができず,二十四節気で表している.時刻は1日を12分割し,十二支をあて,それを4分割したものが,刻を10分割したものがであった.そして,基準値としては太陽の南中時刻を午の3刻としていたようである.

当時は十二支の時刻を太鼓で,その下の配分である刻を鐘で知らせていた.子と午の時刻は太鼓を9つ,丑と未は8つ,寅と申は7つ,卯と酉は6つ,辰と戌は5つ,巳と亥は4つ太鼓を打ち,その下の刻を鐘でうった.この時刻の太鼓の数が江戸時代の時刻の呼び名の基となった.

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参考文献

橋本万平,日本の時刻制度,
内田正男,1982,天文学史 日本の暦法,恒星社
渡辺敏夫,1986,近世日本天文学史上,恒星社