■ 人名辞典【つ】 ページ 

ツァハ Zach, Franz Xaver von (1754−1832)

ハンガリー生まれの天文学者.はじめ機械技師としてオーストリア軍に入るが,その後エルンスト侯爵家の家庭教師.1786年侯爵はゴーダのゼーベルゲンに天文台を立て,ツァハを台長とした.1800年から世界最初の天文雑誌「天文学通信」を発行.1818年からフランス語で「天文・地理・測量・統計通信」を発行.18世紀末,24人の天文学者を動員して新彗星,新惑星捜索のための計画を推進.

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参考文献

中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


ツィオルコフスキー Tsiolkovsky, Konstantin Eduardovich (1857−1935)

ロシアのロケット研究者.近代ロケットの父とも呼ばれる.9歳で聴力障害を起こす.13歳のとき自然研究に入る.1879年,独学で教師の免許を得,余暇にガスを充満した金属飛行船計画を研究,1897年にはロシア最初の風洞を作る.1883年“自由空間”を論じ,1898年には簡単なロケット理論を完成.1903年には「反作用利用装置による宇宙探検」を著す.1918年の10月革命以後,学士院会員となってロケット研究に専念.多段ロケットでなければ地球の重力圏を脱出できないと考え,宇宙服や宇宙遊泳の方法も考案,また死の直前にはブースターをつけたロケットについて論じた.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


ツィナー Zinner, Ernst (1886−1974)

スイスの天文学者.1926年から1953年までバンベルクのレマイス天文台の台長.変光星研究の権威.眼視観測だけでなく,数世紀の周期で変光する星を調べるため,プトレマイオス以来決定されたすべての眼視等級を基礎とした2373個の測光カタログを1926年に完成.しかし,はくちょう座ρ,りゅうこつ座η以外にそれらしい変光星は見つからなかった.また,天文史家としても有名で,「天文学史」「11〜18世紀の天文器械」「コペルニクス説の起源の普及」「ルネッサンス期のドイツの天文文献史」などがある.しかし,彼の名を最も有名にしているのはジャコビニ・ツィナー彗星である.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


ツヴィッキー Zwicky, Fritz (1898−1974)

スイスの天文学者.ブルガリアに生まれ,アメリカで活躍したが,晩年再びスイス国籍を得る.1922年スイス連邦工科大学で博士号をとり,1925年アメリカに渡る.1927〜72年,カリフォルニア大学で教鞭をとる.はじめ結晶と流体の物理学を専門としたが,銀河の赤方偏移に興味を持ち,天文学に転ずる.超新星に最大の関心を示し,中性子星の超新星との関係を示唆した.また超新星を分類し,1942年にはその出現頻度を推定し,赤方偏移は遠い銀河ほど大きいという理論的推測を下し,多くの遠い銀河団を発見した.数千の銀河や銀河団のカタログを作り,1947年にはコンパクト銀河のリストも作った.またコンポジット写真法を開発し,これによりかに星雲の偏光をとらえた.1943年から1949年までロケット研究にも従事,トルーマン大統領から自由メダルを贈られる.

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ツェラスキー TseraskyCerasky, Vitold Karlovich (1849−1925)

ロシアの天文学者.1868年モスクワ大学に入り,在学中から同天文台で計算者として働き,卒業とともに員外助手となった.1870年代女子高校で教職に就くが,1874年の金星による太陽面通過の観測を行い,また組織的な写真による太陽研究を始め,1877年には天体測光にまで幅を広げた.1882年モスクワ大学講師,教授を経て同天文台長.1895年には太陽表面の下限温度を決定したり,1911年に太陽光度を測定したりしている.また組織的に星野写真を撮影し,1885年には夜光雲を発見しその高度を測定.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


ツェルナー Zollner, Johann Karl Friedrich (1834−1882)

ドイツの天体物理学者.1855年ベルリン大学に入学してから次々と天文器械を考案,改良する.特に測光器に力を入れた.1866年ライプツィッヒ大学の教授となり,ヘリオメーターの原理を応用した分光器を作り高速視線速度星のスペクトル線の正確なドップラー効果を測定した.理論的分野の研究が多い.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


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