■ 人名辞典【て】 ページ  -

テナント Tennant, James Francis (1829−1916)

インドの将軍で天文学者.1868年8月18日の日食に際してインド・グントゥールに陣取り,食された太陽の縁から発した巨大な渦巻き構造上の炎をとらえた.また1871年12月12日にはドダベッタで観測し,コロナに現れる緑色輝線はコロナの裂けているところでも強いことを認めた.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


デニング Denning, W.E. (1848−1931)

イギリスのアマチュア天文学者.惑星の観測家として知られ,とくに19世紀末期にいちじるしくよく見えた木星の大赤斑の詳細な観測を残す.また,彗星観測にも力を尽くし,1881年には彗星を発見している.1916年にはポン・ウィネッケ彗星と関連する流星群を発見し,当時の指導的流星観測家で多くの流星群の放射点の位置を決定した.1920年のはくちょう座新星の発見もデニングの名で記録される.1891年からイギリス天文学会の彗星部長,1899年から1900年までは同じく流星部長を務める.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


デモクリトス Demokritos (BC460頃−BC370頃)

ギリシャの哲学・博物学者.原子論の基礎を築いたレウキッポスの弟子.師の原子論を発展させ,完成させる.

デモクリトスの哲学は無数の原子(アトム)論で,このアトムは分割できず,いろいろの大きさ,形のもので,発生することも,消滅することもなく常に運動しており,それらの組み合わせや配列に従っていろいろの物質を形成するものと考えた.天文学・数学・音楽・生物学・詩論の諸方面に通じていて,“智性(ソフィア)”と呼ばれた.デモクリトスの原子論は,古代ギリシャの初期唯物論の完成を示し,のちの物理学の礎を築いた.また天文学の分野では,天の川が無数の星から成ることを予想した最初の人と言われる.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


デュアメル Du Hamel, Jean-Baptiste (1623−1706)

フランスの神学者・科学者.パリで修辞学と哲学を学びさらに数学を学んで「天文学要義」を1643年にまとめる.1644年からアンジェー市の大学で哲学を教え,1649年に教会の聖職按手を受け,52年にはパリに移り神学教師.翌年弁護士の兄の秘書となり,同時に1663年まで教会の牧師として活動.1656年王室づき神父となり,またバイユーの司教.1666年,王立アカデミー創立にあたり,その書記に任命.1668年からはクロアシ伯の執事となり,またのちイギリス,オランダなどへ外交官として駐在,晩年は王立アカデミーの運営と改革に努力.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


デ・ラ・ルー De la Rue, Warren (1815−1889)

ド・ラ・リューとも読む.イギリスのアマチュア天文家,発明家,化学者で天体写真の先駆者.パリで教育を受けた後印刷工場手伝いとなり,電池の改良などを行う.土星,月,太陽面などの優れたスケッチを残し,33cm反射望遠鏡を自作,カノンバリーの私立天文台に設置.また月面の立体写真撮影に成功,また太陽撮影装置を発明,それに立体撮影を導入して1861年,黒点が太陽大気の低圧部であることを発見した.また,1860年にスペインで皆既日食を観測し,プロミネンスが月ではなく太陽から出ていることを明らかにした.後半生は化学の研究に力を注いだ.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社
アシモフ「科学技術人名事典」共立出版


デランドル Deslandres, Henri (1853−1948)

フランスの天体物理学者.エコール・ポリテクニクを卒業後陸軍に入るが退役,母校とソルボンヌ大学の物理学教室に勤務して紫外線スペクトルの研究を行う.1889年パリ天文台員となり,天体物理学部門の発展に努力.1897年ムードン天体物理学観測所に移り,1908年台長,1926年パリ天文台を合併.天体,特に太陽の分光研究が主要な業績であり,1894年太陽分光写真の撮影に成功,帯スペクトル理論の成立に貢献.1893年の日食においてコロナが月ではなく太陽の周りにあることを確認,またアルタイルの分光研究からアルタイルが太陽によく似ていることを確かめた.1896年日食観測のため来日.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


デリール Delisle, Joseph-Nicolas (1688−1768)

フランスの天文学・測地学者.マザラン大学で修辞学を学ぶ.次第に数学に関心を深め,1706年の日食が天文計算を学ぶきっかけとなった.王立天文台でカッシニの未完の太陰・太陽表を写し,その完成に努力した.20歳台後半に私設天文台をつくり,日月食などの観測により業績を上げて1714年科学アカデミーに入る.その後,食や掩蔽に関する多くの研究を発表.1718年王立大学数学教授.1721年,ピョートル大帝に招かれロシアで天文台と付属天文学学校の建設に努力.1747年フランスに帰り王立大学に復帰,クリューニに新天文台を建設.ここで,シャルル・メシエを弟子にし,1758年に彼をハレー彗星発見に導く予報計算をする.1761年引退.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


デルフェル Dorffel, Georg Samuel (1643−1688)

ドイツの天文学者,神学者.ライプツィッヒ大学とイエナ大学で神学・数学などを学び,1668年ライプツィッヒ大学で神学修士号を得,1672年父親の教会の牧師を継いだ.1684年ヴァイダ地区の教会監督となる.天文学に興味を持ち,特に彗星観測を得意とした.1672年出現の彗星の位置観測から,同彗星が惑星と同方向の軌道運動をしていることを確かめ,1860年の彗星の軌道を太陽を焦点とした放物線軌道であるとし,他の彗星も同様であろうとの推測を発表.月のクレーターにデルフェルの名がある.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


デルポルト Delporte, Eugine Joseph (1882−1955)

ベルギーの天文学者.ブリュッセル大学で物理学と数学を専攻,21歳で博士号取得.ただちにユックルの王立天文台に無給助手として入り,1909年正式台員に任官.1936年台長,1947年引退.最初の16年間は子午線天文学に専念し,3,533星の子午線通過を観測.その後,彗星と小惑星観測に転じ,確認観測を行いながら小惑星ベルギカ,アモール,アドニスなどを発見.また,デュトワ=ネウイミン=デルポルト彗星の独立発見者.1922年国際天文学連合総会で“星座の科学的表現”の分科会委員長.同連合1930年総会に委員会報告書を提出,全天の88星座を確定するとともに,その境界線を経緯度線に沿って決定する.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


テンペル Tempel, Ernst Wilhelm Leberecht (1821−1889)

ドイツの天文学者.コペンハーゲンで身につけた石版術を生業とし,ノルウェー,イタリア,フランスを転々とした.ヴェネチアにいたとき,1859年に最初の彗星とプレアデス星団関連星雲を発見.1861年マルセイユに移るがフランスから追放されミラノへ行き,ブレラ天文台に入る.1875年からフィレンツェ郊外アルチェトリの新天文台に移り,1886年まで観測を続ける.しし座流星群の母体である1866I(テンペル・タットル彗星)を含む26個の彗星(うち独立発見6個)と小惑星6個(うち独立発見1個)を発見したほか,星雲のスケッチを大量に残す.またプレアデス星団に数百個の星を認めたことも特筆に値する.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


デンボウスキー Dembowski, Ercole (1812−1881)

イタリアの観測天文学者.イタリアの貴族・軍人.31歳まではオーストリア海軍士官として東洋方面での作戦に従事.退役ののち1852年ナポリ近郊に私立天文台を設立,12.7cmの望遠鏡で重星のすぐれた観測を残した.1870年ロンバルディアに移りシュトルーヴェのドルパト目録の改訂を継続.1857年「ドルパト目録」中の127個の重星の再測定を出版し,1859年には同目録中の主要星すべての再測定を出版.

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中山茂編「天文学人名辞典」恒星社


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